弊社は、冷蔵庫用ドアマグネットガスケット、異形押出製品の製造をしています。創業者の父―太が、1968年に設立しました。紆余曲折がありましたが、こうして今も事業が営めるのは、社員やお取引先はじめ、多くの皆様の尽力、ご支援があったればこそと、感謝の毎日です。
私は25歳で入社し、叔父が工場長を務める大阪茨木市の事業所に赴任しました。主に冷蔵庫工場のお取引先の営業を担当しました。冷蔵庫はコンベアラインで流され、さまざまな部品を取り付けながら組立てられます。部品の一つでも欠ければ、全体のラインが止まってしまいます。大勢の人たちがラインについている冷蔵庫工場では、例え1分間であっても、その人件費や経費は、合計すると多額のものになります。部品を供給する会社の一つとして、注文をいただいた数の製品を規格どおりの品質で作り上げ、納期どおりにご提供するという、あたり前の仕事の基本を、身をもって学んだ時期でした。ものが出来なければ、時間でカバーするしかありません。繁忙期には休みもなく、現場の生産応援が日常になっていました。また、当時の家電会社は部品メーカーに対し、さまざまな交流の場や、学習の場を提供してくれました。もの作りの専門家による学習会や、中小企業の後継者の会などの交流で、後になって役立ったことがたくさんあり、ありがたかったです。
7年の大阪生活を終え、東京本社に入りました。しばらくして、父が脳梗塞で倒れました。叔父も引退しており、工場運営以外の経営実務を、自分でやらなくてはならなくなりました。経営環境も楽ではなく、辛いこともありましたが、学生時代の先輩や仲間が、励ましてくれました。私は東京生まれで、苦労知らずで育ってきましたが、学生時代には、不思議にも地方から出てきて苦学している友人が親友でした。その親友の先輩から「若い時は、苦労を買ってでろ」と言われたことがありました。その言葉がよみがえった時でした。 幸いにも、1年ほどで父は健康を取り戻し、復帰を果たしました。
その翌年から2年間、タイ工場創業の責任者として、海外初の会社を立ち上げましたが、この本社での1年の経験がタイで活きました。そして、タイと合わせたこの3年間が、その後の経営者としての私の土台になったようです。こうした経験が、若い時に出来たこと自体、本当に私は幸運だったのだと思います。
世の中には、思うに任せない現実と格闘しながらも、労苦を惜しまず、誠実に一生懸命生きている人たちがいっぱいいることもわかりました。自分ではとても及ばない、身近にいるそうした人たちを、尊んでいこうと、この経験を通して学びました。 「道とは何か。それは、道のなかったところへ踏み作られたものだ。荊棘ばかりのところに拓き作られたものだ。」とは中国の魯迅の言葉です。私たちの世代の前には、戦後の焼け野原から復興を果たした先達たちが作ってくれた道がありました。その先達の労苦に思いを致しながら、―歩―歩、道を踏みしめて、次に続く人たちと共に、進んでいきたいと思います。